10月15日、カープファンに信じがたいニュースが飛び込んできました。
「今村猛投手の戦力外」
私もかなりショックを受け、一つの時代の終わりを実感しました。
そんな今村投手について簡単にまとめたいと思います。
高校時代
今村投手は長崎県佐世保市の出身で、高校は地元で強豪の清峰高校へ。
3年春の第81回選抜高等学校野球大会(通称:春のセンバツ)では決勝戦で現・シアトルマリナーズの菊池雄星投手率いる花巻東高校を1-0で破り優勝を果たしています。この決勝戦で今村投手は完封勝利を収めています。
この大会で今村投手は44イニングを投げて47奪三振、4完投、3完封、1失点という驚異の成績を残しています。
3年夏の大会では残念ながら甲子園へ出場することができませんでしたが、長崎県大会の準々決勝でのちにチームメートとなる大瀬良大地投手と投げ合っています。大瀬良投手と投げ合ったこの試合で敗れたため、甲子園出場とはなりませんでした。
当時の試合について、二人はこのように語っています。
――高校時代の最も印象深い試合は
今村 最後に負けた、(09年夏の長崎大会での)長崎日大戦。試合中に「高校野球、終わったな」と正直思った。(大瀬良投手の投球を見て)「これ、打てないな」って思ったのは、はっきり覚えている。
――当時、今村投手のことは意識していましたか
大瀬良 選手としてもチームとしても雲の上の存在。でも、清峰をやっつけないと甲子園には行けない。清峰に勝つことが、チームとしての一つの目標だった。
――実際、夏の長崎大会で清峰を破りました
大瀬良 初回に点をとってくれたので、すごく楽になった。自分が1点でも少なく抑えて勝負していくと思っていたので、2点とってくれたのは大きかった。
――自身の調子は
大瀬良 良かったですね。夏の大会を通じて、自分の持っている力以上のものが出せていた。目標にしていたチームと戦うというモチベーションが、すごくいい形でパフォーマンスとして出せた試合だった。
あれから12年以上経った今も二人の友情は熱く、10月15日の大瀬良選手の登板時には今村投手の登場曲を流すという粋なきな計らいがありました。これだけでも涙が出ますね・・・
プロ入りへ!
センバツ優勝を果たした2009年の秋のドラフトで今村投手は、我が広島東洋カープに1位指名されます。
年俸は球団の高卒新人としては最高額となる1000万円で、当時の期待の高さがうかがえますね。
ちなみにこの年のドラフト2位は堂林選手。堂林選手は夏の甲子園の優勝校中京大中京のエースでした。
センバツ優勝校のエースと甲子園優勝校のエースが同時にカープに入団するという出来事に、当時のまつやんはめちゃくちゃ興奮しました!
プロ入り後
プロ1年目の2010年は球団の方針により、シーズンのほとんどを2軍で過ごすことになります。
2軍で好投を続け、7月22日のフレッシュオールスターゲーム(2軍のオールスター)では先発を任されました。
そして、8月18日に初の一軍登録を受け当日の東京ヤクルトスワローズ戦でプロ初登板・初先発を果たします。結果は、2回5失点のデビューとなりましたが、高卒1年目で1軍の試合で投げれるだけ立派ですね。
5失点といえど、味方守備の足にも引っ張られての5失点でしたので、当時の野村監督からは
「本人も相当緊張していた。出だしで野手が足を引っ張って、かわいそうな初登板だった」
との同情のコメントもありました。
今村投手のプロ初勝利は2年目の2011年4月16日巨人戦です。先発のアルバラート投手(登録名はジオ)の負傷降板により急遽今村投手が登板。3回1/3を無失点で切り抜けてプロ初勝利を挙げました。
さらに、当時の守護神サファテ投手の離脱後は守護神に指名され、10月8日の東京ヤクルトスワローズ戦でプロ初セーブを挙げています。これ20歳5か月でのこのセーブは、球団最年少セーブになっています。
2年目のこの年は54試合に登板し(うち6先発)、3勝8敗2セーブ18ホールド防御率4.69という成績でした。
3年目は29試合連続無失点を達成するなど抜群の安定感を見せ69登板でリーグ3位タイの26ホールドをあげます。防御率も1.89と抜群の安定感で高卒3年目の投手とは思えないですね。
この成績が認められ、翌年2013年の第3回WBC日本代表に選ばれます。この大会では、2イニング3失点と振るいませんでしたが、高卒3年目にして代表入りは素晴らしいですね。
ここまで見てわかるように、今村投手は高卒2年目からいきなり2年連続で50試合以上登板するなど、登板過多気味であったことが分かりますね。
それに加えて3年目のオフはWBC代表に選出されていますので、休む暇がなかったことでしょう。。。
プロ入り後初の不振
それまでの登板過多などが響いたのか2013年の今村投手は57試合に登板し防御率3.31と2012年ほどの好成績は残せませんでした。
その後2014年はわずか17試合の登板で防御率4.35、2015年は21試合の登板で防御率3.46と思うような成績が残せず、もうここまでなのか。。。と思うファンもいたでしょう。
優勝チームの勝ちパターンとして復活!
転機は2016年でした。この年、今村投手は不死鳥のごとく復活し、67試合に登板し防御率2.44の好成績を残します。7回今村投手8回ジャクソン投手9回中崎投手の中継ぎ陣は鉄壁でした。
この年の優勝を語る上では今村投手の復活は欠かせませんね!
さらに日本シリーズでは全6試合に登板し、シリーズ最多の4ホールドを記録しました。
翌年の2017年も引き続き勝ちパターンの一角として活躍します。開幕はセットアッパーを任されますが、守護神中崎投手の故障離脱に伴い一時は抑えを務め、23セーブを挙げました。
最終的には68試合の登板で防御率2.38、23セーブ17ホールドと中継ぎの柱としてチームの連覇に貢献しました。
再び不調へ・・・
登板過多による不調から復活を遂げた今村投手でしたが、この連覇中も連続で70試合近く登板するなど登板過多になっていました。
そして、迎えた2018年。この年は過去2年間の安定感が見られず、2016年6月7日以来となる不調での2軍降格を経験します。
この年は最終的に43試合の登板で、3勝1セーブ13ホールド防御率5.17といった成績でした。
2019年、2020年も思うようなピッチングができず一軍登板はそれぞれ27試合、6試合に終わります。
そして・・・
迎えた2021年シーズン、今村投手も「今年1年が最後と思ってやってきた。」と語るように強い覚悟でシーズンに臨みます。
二軍では6月中旬までに17試合に登板し、防御率は1点台と安定した投球をみせていました。
しかし、結局シーズン終盤まで一軍へ呼ばれることはなく、10月15日に戦力外通告を受けてしまいました。
まだ30歳ですし、これからの復活もありえると期待していただけに、ファンにとってもつらい戦力外となりました。
今村投手にまつわる小話
今村投手といえば、2011年5月20日のオリックス戦での「7番・指名打者今村」事件でしょう!
この試合で、当時の野村監督は偵察委員(※)として今村投手を起用しましたが、公認野球規則・6-10(b)に明記されている「指名打者は相手チームの先発投手に対して、少なくとも一度は、打撃を完了しなければ交代できない」というルールを野村監督は失念していました。
これをオリックスの岡田監督に指摘され、今村投手はオリックスの先発木佐貫投手が降板しない限り最低1打席は入らなければならなくなりました(笑)
そんな今村投手の打席ですが、2回表1死1塁の場面で回り、見事送りバントを決めています!
その後、5回表の2打席目で代打(石井琢朗選手)が送られています。
※当時は予告投手制度ではなかったので、右投手か左投手か当日までに分からないことがあった。そのため、登板予定のない中継ぎをスタメンとして使い、相手投手が分かり次第野手に交代するという作戦があった。その時にスタメンとして使われる中継ぎを偵察要員とよぶ。
今村投手にまつわる小話 ②
今村投手ですが、過去に現カープで同僚の長野選手へ頭部死球を当ててしまったことがあります。
2011年8月7日の巨人戦@マツダスタジアムの8回表、今村投手の投げた球は長野選手のヘルメット左の耳当てを直撃。長野選手はそのまま担架に乗せられて退場しました。
長野選手は無事で、2011年8月27日の広島対巨人@マツダスタジアムでは再び今村投手VS長野選手が。
この打席で長野選手は勝ち越しとなるタイムリースリーベースを放っています。
その時の長野選手のコメントがとてもかっこよかったのです。
死球を受けてチームを離脱中、自宅でテレビをつけると今村の姿が目に入った。「しっかり投げているのを見て安心しました」。自分自身のことよりも、20歳の右腕を心配して関係者にも様子を聞いていただけにホッとした。復帰戦となった13日の広島戦(東京ドーム)では1安打2打点の活躍。この日の直接対決でも、これまで通りの長打力で元気な姿を見せた。
同じ投手と同じ球場で…長野 頭部死球の今村からV三塁打― スポニチ Sponichi Annex 野球
長野選手のこの優しさがあったからこそ、その後も今村投手はインコースに投げることができたのだと思います!
とてもハートフルなお話ですね
最後に
正直今回の今村投手の戦力外にはまだ驚きが隠せません。。。
登板過多による不振から一回復活し、 3連覇にも貢献してくれた投手なので思い入れが強いからでしょう。。
まだ30歳なので、他のチームでプロを続けるという道もあるかと思います。
今村投手がどのような決断をくだしても、まつやんはこれからも応援し続けたいと思います!
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